ある寄席の最前左側に、いつも「予約席」と置かれた青い座布団があった。
かなりの年代物に見え、綿がはみ出している。
とても、客の座るものではない、と思っていた。
ここの寄席に来始めたのは、小学生の頃。
祖母と一緒に来たのが最初だった。
その頃には、既にその座布団はあった。
けれど、いつ来てもひたすら「予約席」。
誰かが座っている事などなかった。
ちょっとした縁で、その寄席を手伝う事になったのは、高校生の時。
人手が足りない、ということで、頼まれたのだ。
ある高座が終わった時、その噺家は、その座布団に向かって、頭を垂れていた。
客は、ちらほらいたのだが、その噺家は、その座布団へと向き直し、深々とおじぎをしていた。
俺は不思議に思って、その寄席の人たちに聞いた。
ところが、揃って、「噺家になれば、分かるらしいよ」と言うだけ。
実際、自分たちは見た事がないが、噺家たちの間では、伝説になっているといい、噺家たちがわざわざ、
その席をリザーブしているのだという。
元々、興味があったので、その時には噺家になろうと、自分は決めていた。
そりゃ、かなり苦労はしたが、色々な経験をさせてもらい、芸も磨いた。
その時。
この寄席の話が出たんだ。
「お前、あの寄席にいたんだって?」
「ええ、手伝いでですけど・・・」
「・・・そろそろいいかな」
師匠が意味ありげに、俺を見てそう言った。
「今、自分の一番得意な出し物をやってみろ。それで、あの席に座る人から、拍手もらえたら、お前は一人前だ」
「・・・・・え?」
いつ見ても、空席だった。
そして俺は得意の噺を、力一杯やってみた。
そして、その間も空席だった。
「おあとがよろしいようで・・・」
と、頭を下げ、再び上げた時。
その青い座布団の上に、品のいい、女性が座っていた。
あれ、と思って、目を凝らすと、その女性、俺には見覚えがあった。
可愛がってもらった、おばあちゃん。
俺が中学生の時に、他界した。
その時と変わらず、優しい笑みで、頷きながら俺を見ていた。
「ばぁちゃん・・・?」
ばぁちゃんは、手を叩いてくれた。
声は聞こえなかったけど、唇が、確かに言ってくれた。
「よくがんばったね。これからもがんばるんだよ?」
涙があふれて来た。
そうか。
あの座布団は、自分が一番見せたかった人へ、一人前になった姿を見せられる、特等席なんだ。
そう思ったら、自然と、俺はその席へ、深々とおじぎをしていた。